1985年生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業後、野村證券株式会社に入社。2012年、ゴールドマン・サックス証券株式会社に転職。一貫して、投資銀行部門にて、企業買収および資金調達の助言業務に従事する。2016年6月、エメラダ株式会社を共同創業し、代表取締役CEOに就任。未上場成長企業やベンチャー企業に対して、オンラインプラットフォームを通じた資金調達の機会を提供している。また、個人投資家がスタートアップに対して投資できる株式投資型クラウドファンディングサービス「エメラダ・エクイティ」を運営。
インターネットを活用した資金調達および投資プラットフォームの構築、運営
■エメラダ・エクイティ
プロの投資家が投資したベンチャー企業に「相乗り投資」。プロの投資家が目利きをして出資したベンチャー企業に 個人投資家が1社49万円まで投資できる株式投資型クラウドファンディングのサービス。
【ミッション】
「テクノロジーと金融ナレッジで金融市場の99%に透明性を」
企業数ベースで99%を占める未上場企業に対して、オンライン上のプラットフォームを通じた株式性資金や借入等の幅広い資金調達の機会の提供を目指して参ります。
また、オンラインプラットフォームで資金を提供する投資家側に対しても、投資企業の必要な情報が開示される透明性を確保し、既存の金融サービスを補完する効率的な資金循環の環境を整備して参ります。
4~8歳までの4年間、アメリカの東海岸に住んでいました。「日本人で固まらずに現地に解け込め」という父親の教育方針で、平日は現地の学校に通い、土日は日本語を勉強するために日本人学校に通っていました。現地の学校では、アジア系は私ひとりでしたが、伸び伸びとした生活を送っていたと思います。また、学校がある期間でも休みを取ることがしやすく、家族で国道を車で旅し、ほとんどすべての州を巡ったと思います。今でもその数々の土地の光景が脳裏に焼き付いています。すべてが自由で、すごく楽しかった。
逆に、日本人学校では、日本語があまり話せなかったこともあり、授業で教科書を朗読させられるとうまく読めず、周りに笑われてしまうなど、日本人特有のコミュニティは嫌だなと強く感じていました。帰国することが決まった時は悲しかったですし、帰国してからも最初は、日本での生活に馴染むのに苦労しました。日本人は異質なものを排除する傾向が強いので、いかに全体に合わせられるかということが、私にとってチャレンジでしたね。
今こうして起業しているということは、それから20年くらい経っても、良くも悪くも、社会に適合できなかったんだろうと思います。もちろん全体に合わせることもありますが、心の底では自分のコアな部分は譲れないという感覚です。
日本語があまり話せないといっても、子どもでしたので、数ヵ月経てばまったく問題ないレベルにはなっていました。それよりも、やはり、オリジナルな意見を良しとしない雰囲気だと思います。それまで「僕はこう思っている」と言えば、「私はこっちだと思う」とか「僕はあっちだと思う」とか「そういう考え方あるよね」というたくさんの声が返ってきました。日本社会では、「あんなこと言ってるよ」ということを非対面でいわれる感じです。そして、それが別の形で跳ね返ってくる。でも、目の前の社会から逃げることも出来ないし、するべきではない。小学生の時の教訓があるからこそ、良い意味での抵抗力が身に付いたと思います。おそらく誰もが通過する試練のうちのひとつですが、私の場合にはその感応度が高かった。「自分はこう思うけど、組織はこうなんだ」と、どこまで合わせるべきなのかを客観的に見ることができれば、不必要に合わせてしまって苦しくなることがないんですよね。自分、価値観、社会の間での「距離の取り方」を学びました。
中学生の頃は、あまり勉強もせず、良い生徒ではなかったですね…(笑)。小学校の頃は「距離を取る」というスタンスですが、思春期に入り「距離を無視する」というスタンスに変わったというか。吹っ切れた感があり、攻めに転じるわけです。中学生の時も高校生の時も、校長先生に呼び出され、「お前は学校のガンだ」と言われました。どういう生活だったかは、想像にお任せします…(笑)。
でも、進路を意識し始めた高校3年生になってからは真面目に勉強を始めました。実は、高校生になるまで、本を丸一冊読んだことがなかったんですが、一時期本ばかり読む時期がありました。